持明院「はすの会」高野山の納骨と永代供養墓

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今年も元気です、ご安心してください御先祖さま(1997春-No.3)

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今年も元気です、ご安心してください御先祖さま

春季合同法要挙行

恒例の春季合同法要が、3月23日「佛舎利宝塔」で盛大に挙行されました。

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当日は晴天にも恵まれ、130名の方々が出席なさいました。竹内副住職主宰による合同法要は厳かの内にも、ほのぼのとした温かい雰囲気が漂い、読経と焼香は高野山奥の院にそびえ立つ千年杉を一段と美しくさせました。

高野山の春は遅くまだ肌寒さが残る季節でしたが、ご用意いたしましたお席はすべて満たされ、皆さまのご先祖様を思う心がひしひしと伝わってまいりました。

残念でしたが、御住職竹内崇峯大僧正様は先日来お風邪で床に伏し、当日お声もでない状態で、皆さま方に御法話を拝聴して戴くことができませんでしたが、その後快方に向かわれておりますので、どうぞご安心ください。次回には元気なお姿を見せて頂けると思います。

合同法要は年3回行われます(※2011年現在は年2回)。毎年、参列される方が多くなり、(はすの会)事務局でも喜んでおります。次回は七月のお盆の頃となりますが、このたび大阪市内に持明院別院(慈寳院)ができましたので、来山しにくい方は慈寳院にあらかじめお申込みして、御先祖さまのご供養をなさってください。

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実母の三回忌を前にして

母子で歩んだ入生の記録

―はすの会会員 山田安子様―

私の父は昭和19年7月18日サイパン島玉砕で他界しました。

父の顔は写真で覚えているだけで、幼かった私はなにも覚えていません。

仏壇の凛々しい軍服姿の写真は、32才頃の写真で、母との結婚生活も僅か四カ月、赤紙一枚で遠い戦地に行かされた父を思うと、父の無念さが今更ながらに思いだされます。

母が私を産んでから半年後、父が突然帰ってきたそうです。親子で二度と訪れることのない三日間を過ごしましたが、その間父は幼い私をずっと抱いてくれてくれ、後で母は私の着物が濡れていたので、父は泣いていたのだろうと、その後聞かされました。

父の戦死の報を母は受け、父の葬儀は実家で行われました。生前父は神戸製鋼所に勤めていましたが、戦死と同時に給与も絶たれ、戦後受給した遺族年金を家賃に充当してしのぐ、苦しい生活の時期が続きました。母は言語に絶する苦労をしました。

母の命日は5月25日です。最近、母と苦労した子供の頃の事をよく思いだします。

「人は知るまい、人は知るまいの人生峠」私が小学校に入学する前から母は澱粉工場で私を連れて働いていました。母とはいつも一緒でした。

小学校三年生の冬に母が朝は三時半に起床し、駅まで四、五十分未だ明けやらぬ暗い山道を駅まで歩き、汽車に乗って仕事に通ってました。本当に私のために必死に頑張り通してくれたと思います。

私は子供の頃から母に仏壇の前で正座し、手を合わせ仏様を拝むことを躾けられました。

私は無心に亡き父に学校での出来事を報告をしたり、心の安らぐひと時でもありました。

母の躾けは厳しく、私もそのような環境で強く生きていくことの大切さを身につけて成長してまいりました。

ある私立高校に入学でき、二年生の夏休みに、近所の子供たちに算盤を教え、その後十年間続けてきました。卒業後農協職員として夜は算盤塾の先生と多忙な日々を送りました。

昔の事を思いますと夢のようでした。車の免許も取得し、母と二人で父の墓参りもできるようになりました。

結婚適齢期に達し、友人はどんどん結婚していきました。私は所得が当時の普通の男性よりも高かったことが、逆に婚期を遅らせる結果となりました。

大阪に一人で暮らしてみたいという希望を母も許してくれ、母のお友達のお世話で今の主人と結婚しました。母を田舎から呼び、運よく私の勤め先の寮母の仕事があり、楽しい時期が過ぎました。

その後私ども夫婦と母は同居し主人の理解もあって、母も私もほんとうに仕合わせでした。

カラオケ、ゲートボール、そして念願の洋裁を母は習い、私のものも一生懸命に縫ってくれました。

しかし、私たち親子は父の事を思わない日はありませんでした。父の五十回忌に東京の靖国神社に参拝したかったのですが、私が運悪く病気になり、それもできず、回復を待って心配をしていた母が今度は入院、そのような生活の中でも、母は田舎にある父のお墓の事を随分と気にしていました。

そのようなさなかに持明院様とのご縁ができ、高野山にお墓を持つことができました。母は大変よろこび、 「もうこれで安心ね」と言ってから後に他界いたしました。

今年は母の三回忌、父の顔も知らない私に、誠実に、素直な人生を教えてくれた母との半世紀以上の生活、今私は母への思いと、父への安らかな冥福を祈りながら、主入と仏壇の前に手を合わせる毎日です。

(了)

大阪市内に持明院の別院(慈寳院)ができました

慈寳院

京橋駅より徒歩3分高野山真言宗「慈寳院」が「持明院」の別院として、皆様のご先祖様のご供養をして戴けるようになりました。

「慈寳院」は高野山真言宗の仏寺として、広く壇信徒から親しまれ、住職前川修圓様は高野山真言宗大阪支部でご要職についておられます。

この度、高野山にお出でになりにくい方々のために、「慈寳院」にお願いし、お山でのご供養を大阪市内でできるようになりました。

所在地は京橋駅下車東南口徒歩3分の距離です。

ご供養の申込みは従来通り(はすの会)に直接お申込みください。

仏典に学ぶ

心安らぐ人との出会い

その人と逢えば思いが落ち着き、また心が和むならばかって会ったことがない人でもそのような人には、人は進んで親しむだろう。(出典ジャータカ)

人との出会いほど不思議なものはない。

わたしたちは思いがけないときに思いがけない人と出会う。多くの人びとの行きかう場所で待ち合わせをしているとき、何年も会っていなかった友人に偶然に出会うことがある。逆に、同じ通勤電車に知人も乗り合わせていながら、何年も気づかないですれちがっていることもある。

はじめて会った人なのに、心が安らぐ人がいる。そういう人に出会ったときほど、豊かな、満ち足りた気持ちになることはない。逆に、争いを好む入に出会ったときは、たちまち自分もその争いの渦にまきこまれ、知らないうちに闘争的になっている。接する人によって変化するどちらの自分も、ありのままの自分であることを認めねばなるまい。

原始仏典『ダンマパダ』にあるつぎの詩句は示唆的である。

「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につきしたがう。―影がそのからだから離れないように」。

人の心のありようはそのまま他人に伝わり、それがまたそのまま自分にもどってくる。どんなときにもなごやかな心で接するように心がけることによって、人びととのあいだに小さな平安の世界が生まれるのである。

※出会いと交わり

人と人との出会いと交わりには「真理(まこと)」が存在していなければならない、と仏教は考える。ドイツの著名な哲学考ヤスパース( 1883~1969)が残したつぎのことばは、この仏教の思想と徴妙にひびきあう。「交わりにおいて開顕される過程は、闘いが同時に愛であるような、あの独特の闘争である。愛としてのこのような交わりは、いかなる対象にもかまわずにあてはまる盲目の愛ではなく、明徹な眼を備えた闘う愛である」(草薙正夫・信太正三訳『実存開明』)。

はすの会会館休館日のお知らせ

毎週月曜日・水曜日が休館となります。

なお、どうしても休館日にご来山をご希望の場合は、誠に恐縮でございますが事前にご相談ください。

事務局だより

  • 御詠歌を習いたい人に

持明院別院(慈寳院)で御詠歌を教えて頂けます。ご希望の方は(はすの会)事務局にお申し込み下さい。

  • 写経を習いたい入に

持明院で写経を始めました。ご希望の方は(はすの会)事務局にお申込みください。

料金は昼食込みで五千円です。

写経用の用具はすべてご用意させて頂きます。第一回は六月の上旬になります。

  • 今後各種文化的活動を企画してご案内させて頂きます

(はすの会)事務局では積極的に文化活動を企画致しますので会員皆さまからのご意見をお待ち申し上げております。



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